呼べばいいのに

「ねえ、……」
 僕は口をつぐんだ。たぶんアキラには聞こえてないはず。
「何ですか、時人?」
「なんでもない」
 ぶっきらぼうに答えた。アキラの背中が笑ったように見えて、それがむかむかする。同時に、ひどく寂しくなる。ああ、いやだ、いやだ。なんで僕がこんな気持ちにならなきゃならないわけ。
「で、なんですか?」
「何でもないって言ってるでしょ」
「何でもないのに、なんで呼びかけるんですか」
 何でもないのに呼びかけちゃだめなわけ?そうだよ、だめだよ。だってきっと言うでしょう、『用がないのにわざわざ呼ばないで下さいね』とか。あの皮肉めいた笑いを口元に浮かべながら、心底馬鹿にしたように僕を斬り捨てる。っていうか僕は、なんで用もないのに呼びたくなるんだろう。何か伝えることがあるわけでもないのに、なんで呼びかけたくなるの。
「まぎらわしいことはしないで下さいよ、全く」
「別に呼んでないから」
「それならそれでいいんですけどね」
 アキラはそれ以上何も言わず、木の根を越え下草を踏み黙々と先を歩いていく。何が何でもついていってやる、そんなふうに衝動的に飛び出してきたけれど。歩けば歩くほど悲しくなるのはなぜなんだろう。本当にむかつくのは、『なぜなんだろう』とか言いつつ実はその答えをとっくに知っている僕自身。
「ところで、時人」
「なに!」
 ちょっと棘があったかも。と後悔する間もなく、アキラはクスクスと笑った。良かった、気は悪くしなかったんだ。ちょっとホッとして、それから急に苛立たしくなる。
「だから、なに?」
「なんでもありませんよ」
 明らかに笑ってる横顔。
「なんだよ、それ!」
「あなたも同じことをしてましたよ?」
 唇の端を上げて、あごに手を当てて。いつもの仕草。
「自分がされてむかつくとは、ずいぶん都合のよろしいことで」
「用がないなら呼ばないでよ!」
「それで、あなたの御用は何ですか?」
 言葉に詰まる。
「別に。忘れた」
「違いますね。最初から用なんて無かったんでしょう?」
 その口調にはなんだかあまりにも邪気が無くて、僕はついうなずいてしまった。
「うん。……そう、ただ、呼んでみたかったから」
「最初からそうやって素直で居ればいいのに」
 風が吹いて、袴のすそがサラリとひるがえった。
「呼びたいならいくらでも呼べばいい。減るものでもありませんし」
「ん……」
 僕は少し考えた。土と苔の境を器用に歩き分ける君のかかとを見ながら。
「ねえ、アキラ君」
「何ですか、時人?」
「別に。ただ、呼んでみたかっただけ」
 振り返りもしないその背中、肩が可笑しそうに震えて。
「用もないのにわざわざ呼ばないで下さいね?」
「いいじゃない。僕には呼びたい時に君を呼ぶ権利くらいあると思うけど!」
「そうですね。それは確かに」
 急に、心臓の跳ね上がる音がした。
「ほんとに?ほんとにその権利、僕にある?」
「自分で言っておいて、何を言ってるんですか?あなたは」
 アキラは、吹き出す笑いをもう隠そうともしない。きらきらとこぼれ落ちる木漏れ日がどんどん多くなって、森の出口は近いようだった。心なしかアキラの足が速くなったような気がして、僕も追いつこうと木の根を飛び越えた。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。