夏は夜、闇もなほ

 アキラはずっと歩くのをやめない。
 ずっとずっと一休みもせずに歩きづめだった。休みたい、立ち止まりたいって言いたくなるけれど、またあの人を小馬鹿にした笑みがかえってくる。それに少しでも立ち止まればアキラは簡単に僕を置いていくだろう。だから僕は黙々と歩き続ける。たまらなく悔しいから、どこまでだって追いかけてやると決めたから、決してこの背中から目を離すまいと心に刻んだから。
 なのに時々心がつらくなる。アキラは僕には目もくれちゃいない。
 あたりは鬱蒼とした森だった。とっくに日は暮れて、あたりは刻一刻と暗くなるばかり。遅れまいとはやるほど、何度も木の根に足を取られそうになる。日が沈むまえに野宿できる場所を探すのが常なのに、今日に限ってアキラはなぜか歩くのをやめない。どうして?と聞きたいけれど、休みたがっていると思われたくない。と思った瞬間、張り出した根に僕は今度こそつまづいて、向こうずねをしたたか打った。転んだ瞬間、自分の足がひどく疲れて痛んでいるのがはっきりわかった。
「どうしましたか?時人」
 わかってるくせに。僕は悪態をついた。
「歩くのが速すぎるんだよ。それに真っ暗で何にも見えない」
「私には良く“見えて”いますけどね」
 むかつく。僕が言い返そうとする前に、アキラはさらりと言った。
「視覚なんて問題ない、私の気配を追えばいいだけでしょう。あなたならたやすいはず」
「邪魔なものがおおすぎるんだよ。こんな道」
 僕は手近な木の根を蹴っ飛ばした。苔が貼付いているのか、ぬるっとした手応え。
「どうせこれも修行の一環だとか言うんでしょう?また僕のことを馬鹿にして」
「馬鹿になんかしていませんよ」
「そう思えてたまらないってこと!」
 そう言ってしまったら、ちょっと泣きそうになる。いけない、気取られてはいけない!僕は顔を背け(盲目の君にそんなことをしても意味がないのは分かっているけれど)、幹に手をついて立ち上がった。脛のあたりが土でねっとりしていた。こんなの、たいしたことじゃない。でも泣きそうになる。
「もういいよ。先へ行くんでしょ」
 吐き捨てると、軽いため息が聞こえた。僕は何も言えなくなって、そのまま歩き続ける。風もなく、あたりは夏の虫がうるさい。ビイイイイイイイイ、ビイイイイイイイイと途切れず続く音が癇に障って、乱暴に木の根を飛び越えた。と、足が着いたのは水たまり。
「あっ!」
 また無様な姿をさらす!真っ先にそう思った、でもなぜか倒れなかった。
「まったくあなたという人は何をしてるんですか。苛立ちは自滅の元だということがまだ分かっていないようですね」
 なんだよ、と言い返そうとしたけれど僕は言葉が出なかった。アキラがいつの間にか後ろに回り込み、僕を抱きとめていたから。
「あなたはもっと足腰を鍛えるべきでしょうね。それ以上に平常心というものを」
「うるさいな。慣れていないんだから仕方がないでしょう」
「何ヶ月も私の後をついてきておいて、その台詞はないんじゃないですか?」
 恥ずかしさでいっぱいになって、僕はアキラを振りほどいた。クス、と笑う気配がして、僕はどうしようもなくいたたまれなくなる。
「それでどっちへいくの。こっちの方向でいいわけ?」
「いえ、私が先に行きますから」
 アキラは見えない木の根をひょいとまたぎ、また歩き出す。僕はため息をついて後を追った。でもアキラの気配はどんどん先へ行って、僕はもうここではぐれてしまってもいいと思った。ぬるぬる滑る足下、じめじめした空気、もう泣きたい。さっきアキラの触れたところが熱くて、悔しくて悲しくて泣きたい。こんな気持ちのままついていけないと思った。
「なにやってるんですか。時間はあんまりないんですよ」
 びっくりする。瞬間移動でもしたんじゃないかと思えるほどアキラがそばにいた。いつ戻ってきたんだよ。
「あなたのような人には、やはりこの道はきつかったですか」
 その言い方がむかついて、僕はアキラのいるあたりを睨んだ。またかすかな笑いが聞こえて、ふいにアキラは僕の手を取った。
「ちゃんとついてきてくださいね」
 僕が戸惑う暇もなく、アキラは僕の手を引いて歩き出した。鼓動が早くなったのはアキラが思いのほか早足だからだ。きっとそうだ。僕はつまずくこともなく何にも見えない森を歩いている。だから何となく目を閉じてみる。もっといろんな音が耳に飛び込んできて、後ろの方から微風が耳をくすぐり、前にはアキラの息づかい。きっとこれがアキラにとっての世界、アキラがいつも“見ている”風景。
「水音がする……?」
「もうすぐですね」
 僕のつぶやきにアキラがすぐ応え、僕はさらに耳を澄ませた。目を閉じたままの世界、様々なかすかな音、アキラの気配、手のぬくもり、それからすべてすべて。アキラがまた微かに笑ったようだった。
「そのまま少し目を閉じているといいですよ」
 僕は素直にうなずいて、アキラの後をついていった。どんどん近くなる水音。それは森を流れる小さなせせらぎ、虫の音に代わって高く響く蛙の声。目を閉じたまま歩くのは不思議な感覚で、なのにひとつぶの不安もなく安心しきっていて、そのことにちょっと驚く。でも、そんなに驚くことでもないのかもと思ってちょっと笑った。ちょっと指を動かすと、アキラがすぐに握り直してくれるから。なにも心配することはない。
「時人」
 不意に呼ばれて顔を上げると、アキラがそっと僕のまぶたに触れた。
「目を開けて」


 そこには。
 いっぱいの光。
 あたり一面を無数に舞う、ちいさなちいさな星々。
 と、その星の一つが優雅に空を漂って、僕の胸元に舞い降りた。


「これは……」
 それは小さな虫だった。やわらかく光ったり消えたりしながら、かりかりと服をのぼってくる。アキラはすっと指先でそれをすくいあげ、僕の手のひらの上にのせた。
「やはり初めて見るのですね。蛍です」
「蛍?」
 手の上からその蛍が飛び立った。ふうっと高くあがってすぐ見えなくなった。また一匹飛んできて、肩に止まったかと思ったらまた行ってしまう。蛍……螢。その名をもらった男のことをふと思い出す。なんとなく、なるほど、と納得した。あたりにはそんな光があふれていて、いっせいに灯ったり、いっせいに消えたり、または気ままについたり消えたりしているのだった。水辺、葦の上、そして木の梢の上の上まで。何の明かりもないのに、闇に慣れた目は森のかたちすべてを映し出して。でも、これはアキラには見えないものなのに。
 そのとき後ろで、ころろろろ、という音が聞こえた。
「何の音?」
 アキラが口笛でも吹いたのかと思ったのに、アキラは口を閉じたまま微笑んでいる。するとまた同じ音が聞こえて。
「ほら、この音!」
「これは河鹿ですね」
 時々聞こえるその音を聞き逃すまいと思う。中空をまた光が動いて、今度は僕の肩に止まった。さっきアキラがしたのと同じように指でつつくと、風に吹かれたように飛び上がって水辺の方へ舞い降りていった。ころろろろ、ころろろろ。河鹿の鳴くせせらぎの方へ。
「来て良かったでしょう?さんざん悪態をついていたけれど」
 僕はちょっとむっとしたけれど、思い直して素直にうなずいた。
「嫌いじゃないよ、こういうの」
「それは良かった。あなたの誕生日、少し過ぎてしまいましたが」
 僕は絶句した。たちまち頬が熱くなった。きっとアキラにはバレバレだ。でも、それでもいい。
「私には手持ちのものは何もないけれど……一緒にいるなら、不幸にはさせないつもりです」
 くるりと背を向けた、その背中が好きだから僕はここにいるんだ。いろいろな思いが一度にあふれてきて、僕はたまらずにその背中に抱きついた、絶対に離さない。離してなんかやるもんか。立ち止まったアキラの、そこから感じる優しさに僕は埋もれた。無数の蛍が飛びちがい、蛙と河鹿の声が高く響き渡る中で。
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