花びらの舞い散る里

 どれくらい気を失っていたのか。
 何とも言えない甘い香りが鼻をくすぐっていた。柔らかく頬に触れるものがあって、少し考えてそれがさやさや揺れる花びらだとわかった。眠りを誘うようなたくさんの花に囲まれて、地面に倒れていたのだった。
 そこらには淡い色の花が一面に咲き乱れている。どこか懐かしい、見たことはないのに知っている風景。なんとなく安心して、私はしばらくそのまま倒れていることにした。こんなふうな時間が初めてのような気がした。こんなに心が落ち着いて、もう一生このままでいいとも思う。安らかな香りと色に包まれて、私はのびのびとそこに在るひととなった。閉じたまぶたの裏側からは、私の赤い血の色が見える。ほんのりとやさしい色に、目を開けないままこのまま眠ってしまいたくなる。
 しかし、不意に視界が暗くなった。
「何をしている、こんなところで」
 誰かが日の光を背に、私の顔に陰を作る。どこかで聞いたことのある声に、私は目をしばたたいた。
「歳世……?あなたですか」
 私は身を起こして、まとわりつく花びらを手で払った。
「なぜあなたがこんなところに」
「アキラこそなぜ、こんなところに?」
 私は目を上げて、初めてまともに彼女を見た。彼女は眉をしかめ、心底不快そうな表情だった。
「……ああ」
 私は両手をうって、一人うなずいた。
「ここにあなたがいるということは、とうとう私も死んだんですね」
 となるとここは、ほんものの黄泉平坂か。あらためてあたりを見回すと、確かに現世にはないような風景。樹海の中のそれとも違う、何とも不安のない世界。
「馬鹿を言うな。死にたいのか」
「死にたいのか、とは。あなたに言われるのもおかしな言葉ですね」
 私はあらためて歳世を見上げた。
「ここで何を?」
「待っているのだ」
 歳世はふとうつむいた。
「……その時が、しばらくは来なければいいと思ってはいるけれど」
 ああ、彼を待っているのか。
「その人なら当分来られないと思いますよ。ずいぶん忙しそうだし、相変わらず滑稽なほどがむしゃらで」
「そうか。良かった」
 少し笑って、歳世は私に手を差し伸べた。それで私は地べたに座ったままなことに気がつき、その手の助けは借りずに立ち上がった。
「帰れ。アキラはまだここに来るべきではない」
「また狂と戦って今回も完全に負けたのですから、ここから去る理由もないように思うのですがね」
「お前の魂はまだ身体とつながっている。無駄にするな、帰れ。そして……」
 ふいに歳世は口ごもった。
「なにか?」
「いや、いい」
 無理にほほ笑んで彼女は首を振ったので、私はため息をついた。なんで私があんな男のために、わざわざ気を割いてやらなければならないのか。しかし私が彼女を倒したのだから、ここまでは負うべきなのかもしれない。
「あの男への伝言なら聞いておきましょう、いつ会うとも限りませんが。あるいはあなたの方が先に会うことになるやも知れなくとも、それで良ければ」
 歳世はかああっと顔を赤らめ、ぶんぶん首を振りまくった。
「いや、いいのだ!私のことは……私のことなどどうでも良い、心に留めなくとも良い、ただ辰伶がその日その日を死なずに生きていてさえくれれば」
 その動揺っぷりに、私は思わずほほ笑んだ。
「あの男はあなたの願い通りに生きている。あなたのことも心に留め置いて」
「そんな……」
「私とあなたは正々堂々と戦ったというのに、あなたを倒したことで私を悪者呼ばわりするような男ですからね。あなたも知っているでしょうが、呆れるほどの馬鹿ですから」
 歳世は無言で顔面を紅潮させた。私はしばらくそんな彼女を眺めていたが、いつまでもここに居るわけにもいかないように思った。
「それで、どう行けば帰れますか」
 無言で背後を指差す歳世。そちらも一面の花畑、どこへ続くとも思えないがここで嘘をつかれるとも考えにくい。私は彼女に軽く会釈して、とりあえずその方向へ歩き出す。しかし歳世は短く私を呼び止めた。
「なんですか?」
「待て。もう一度礼を言わなければならない」
 振り返ると、彼女は優しい微笑みを浮かべていた。
「……ありがとう」
 最期に聞いた、あのままの声。
「どういたしまして」
 私は二度と振り返らず、その場をあとにした。


「……アキラ!アキラっ!」
 誰かががくがくと私の肩を揺さぶっている。
「アキラ君!目をっ!開けてよっ!」
 ぼたぼたと生温かいものが頬に落ちてくる。
「……開けても、なにも」
 喉から出た声はひどくガサガサしていて、思わずげほっと咳払いした。
「開けてもなにも、私は盲目ですよ。開きっこ、ありません」
「アキラ君!気がついたの!」
 ああ、この声は時人か。そうすると私は?
「何を泣いているんですか、あなたは。……まったく」
 手を上に向かって伸ばすと、濡れた柔らかい頬に触れた。その上から小さな手がぎゅっと握りしめた。
「今度こそ……死にそうだったから……」
 か細い声がなぜか少し嬉しかった。ああそうか、と一人納得する。この温かさは時人の膝枕だったのか。狂への挑戦にまたも破れ、ぼろくずのように転がった私の名を必死に呼んでくれていたのか。
「狂は、もう行ってしまいましたか」
「ふざけるな!狂は狂はって、いいかげんにしたらどうなんだよ!」
 時人は急に立ち上がり、私はドサッと地面へ放り出された。
「なんで?なんでなのさ!狂、狂、狂って……勝てるわけがないじゃない!なのになんで狂のことばっかり!君には他にないわけ?もういいかげん諦めたら?今度こそ死にそうだったっていうのに、どうして」
「はい、そこまで」
 私がふと手をかざすと、時人は黙った。
「今さら私にそれを聞きますか」
「だって、アキラ君は死ぬのが怖くないの?」
「ではなぜ時人は私についてくるんですか」
「それは……」
 私はゆっくりと起き上がった。激痛がそこここを走ったがうめくのを我慢する。こんな痛みは何でもない。相手にされなくなったと思い込んだ時のあの絶望に比べれば、この痛みは天国からの贈り物にも等しい。
「だから、少なくともあなたには私を理解できると思うんですけどね」
 無意識に顔を拭うと手の甲が濡れた。桜の花びらのような時人の涙、と思いながら深呼吸すると、ここも花の匂いであふれていることに気がついた。けれども今は、ここで倒れたままでいようとは思わない。このまま永遠に眠ってしまおうとも思わない。そういえば、夢の中で歳世に会ったんだった。どんな顔だったかはもう覚えていないけれど、彼女の言葉がよみがえった。『ただその日その日を死なずに生きていてさえくれれば』……
 いつのまにか時人が傍らに座っていた。眼差しを感じて、私はそっと時人の髪を撫でる。柔らかい春の風が、やさしく野を渡っていった。
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