お着替え。

 ちょっと、うたた寝してしまったらしい。

 少し焦って、飛び起きた。ひなびた宿の一室、今日は着くなりぐたっと倒れ込んでしまったんだっけ。少し、少しだけ目をつぶる、それだけ……だったはずが。情けなくて悔しくて、舌打ちした。元太四老のこの僕が、こんなみっともない姿をさらすなんて。でも、今更アキラにはそんな姿を隠そうとも隠せるものでもない。それも忌々しい。
 目をこすりながらあたりを見回す。でも、どこにもアキラは居なかった。どこに行ったんだろう、とふと見上げると、衣桁に掛かるアキラの着物。ああ、だとすると湯浴みに行ったのかも知れない。
 何となく、ただ本当に何となくアキラの着物を手に取ってみる。袴は案外重くて、床にずるんと滑り落ちた。模様の入った長襦袢は人肌の気配が残っていた。自分の肩に当ててみると、裾が少し引きずりそうだ。でもサイズとしては、着られそうな感じもする。
 ……ちょっと、着てみたいかも。
 なんでそんなことを思ったのかわからないけれど。アキラはしばらく戻ってきそうにないし、これも一興かもしれない。僕は自分の着物を脱いで、そうっと長襦袢を羽織る。おそらくついさっきまで、アキラを包んでいた大きな布。着てみると、ほんのり残る体温に包まれ、僕もなぜか温かくなる。しばらく自分で自分の身体を抱きしめた。優しく包む温かさ。泣きたくなる。
 なにやってるんだと思わず首を降り、改めて着物に袖を通した。白っぽい生地に濃色の半襟。やっぱりちょっと引きずってしまう。縞柄の帯を取って身体に巻く。つい蝶結びにしようとして、でもこれじゃあおかしいし、何より袴が履けなくなる。アキラはいつもどうやってたっけ?着替えているところなんてまじまじとは見たことない。そんな恥ずかしいこと、できるわけがない。仕方なく少し小さめに結んで、端を挟み込んで整えてみた。なんか間違ってる気がするけど、もういいや。
 次は袴。見よう見まねで足を入れてみたけれど、着物の裾が引っかかって、腿の部分がもたついた。アキラはもっとすっきり着ていた気がする。とりあえず前を引っ張り上げ、ひもをぐるっと回して結んだ。たぶんこれでいい……と、思う。自信ない。それから袴の後ろを背中に当てようと引っ張ると、着物の裾が引きつれて、これじゃ袴が上がらない。なんだよ、これ!着物の裾を持ち上げて、袴を引き上げようとすると、その隙に裾がずり落ちる。まくり上げればいいのかな。でも、そうするとなんだかふくらんで歩きにくい。前ひもの結び方が悪かったのかな。もう一度解いて、前を引っ張り上げて。たぶん、たぶんこの辺りで結んでいた気がするけど。

「なにやってるんですか、時人」

 飛び上がった。振り返るといつの間にか開いたふすま、その柱に浴衣姿のアキラが呆れ顔でもたれて。
「な、なにって、その」
 しどろもどろになる。顔にかあっと血がのぼる。何をどうしても言い訳も見つからない。ただ狼狽えるしかできない僕に、アキラはクスッと笑った。
「それにしても素晴らしく見事な着方ですねえ」
「だ、だって!」
「ちょっと失礼しますよ」
 アキラはすたすたと僕に近づき、いきなり袴をずりおろした。
「ちょっと!何するんだよ!」
「はい、暴れない暴れない」
 角帯にアキラの手がかかった。押しとどめようとしたのにかわされ、するするほどいてしまう。
「やめ、やめてよっ、脱がすなよ!」
「なにを誤解されているので?直してあげようと思ったんですがね」
 含み笑い。これ以上ないくらいと思ったのに、さらに顔が熱くなる。アキラはそんな僕に構いもせず、ほどいた角帯を伸ばし直して、僕の腰にくるりと巻いた。
「やっぱりこの帯はあなたには長過ぎますね」
「うるさい!」
 帯はまたたく間に綺麗な一文字に結ばれ、どうやったんだろう、もっと良く見ておけば良かった。と思っていたら、いきなり着物の裾が後ろにまくり上げられた。
「えっ、ちょっと!」
 アキラは実に楽しそうに笑って、着物の裾を帯に差し込んだ。
「こうやって、裾を端折らないと袴は着られませんよ?なのにあなたはさっきから、引っ張ってみたり持ち上げてみたり、まったく可笑しくてこれ以上は見ちゃいられませんでした」
「ってことは、いつからそこにいたの?」
 言わぬが花、とばかりににっこり微笑まれて、むかつくったらありゃしない。
「ほら、前を向いてまっすぐ立って」
 いつのまにか後ろ側が引き上げられ、腰板が背中についた。
「ほら、こう端折ると歩きやすいでしょう」
「……さっきよりはね」
 最後のひもがくるりと巻かれ、ひょいと手渡される。
「これを結んでおしまいです」
 素直にいうことを聞くのもしゃくだけど、もうすでに僕はまな板の鯉。黙って受け取り、引っ張って結んだ。ちょっと歩いてみる。裾が引きずる。アキラがあからさまに笑い出した。
「たしかに不格好かも知れないけど!大きすぎるだけだし!」
「いや、そうじゃなくて」
 口元を抑えて肩を震わせてる。そんなに笑わないでよ!
「あなたが私の格好をするのはこれで二度目じゃないですか?」
「何のこと?」
 一瞬怒りを忘れて素で聞き返すと、アキラはからかうような笑みを浮かべた。
「一度、私のふりをして梵を騙そうとしたでしょう。しかも、うまく真似られずにあっさり見破られたんですってね?」
「だってまだあの時は、格好以外君のこと良く知らなかったし!」
「それならどう思います?今なら梵を騙せそうですか?」
 今の僕は、あの時よりもたぶん、もっとずっと君のことを知っている。そして、アキラもそう思っている……?面映くて、むずがゆくて、なんか無性に叫びたくなった。
「もう、二度と、しない、からっ!」
「こら、いきなりそんな大声あげないで下さい。それにしてももったいない、せっかく綺麗に着付けてあげたのに」
「じゃあアキラも僕の着物着てみる?僕が丁寧にやってあげるからさっさと浴衣脱いだら?」
「いくらなんでも、自分の身体より小さい着物は着られませんよ!」
「いーや、どうあっても着てみてもらうから!」
 アキラの襟ぐりをつかもうとしたら、裾がさばききれず素っ転んでしまう。でも、ただでは起きないよ!僕は手を伸ばしてアキラの帯を引っ張った。
「うわっ、どこ捕まってるんですか!」
「さっき僕のことを笑った罰だから!」
 引っ張られてアキラも見事に尻餅をつき、なんだかすごく可笑しくなって僕たちは笑った。笑いながら、アキラが軽く僕の髪を撫でた。楽しくて、嬉しかったけれど、僕は急にひとつのことが気にかかってどぎまぎした。
 思いつきで着たアキラの着物。
 これ、いつ、どこでどうやって脱いだらいいの?
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