障子越しの

 その日はやけに早く目覚めた気がした。障子の向こうがうすぼんやりと明るいのを、僕は半分眠ったままぼうっと眺めた。
 紅の塔が崩れ落ちた日。あの日以来、僕には何もかも無くなってしまった。僕の権力も、居城も、プライドも、強さも……そして一番大切だった人も。気づくのが何もかも遅くて、だから何もかもが手遅れだった。ほっぺたが冷たく濡れてきた。僕にはもう何も残ってない。毎朝思う、こんなことなら毎朝目覚めなければいいのにって。
 平べったい布団の上で、ゆっくり身体を起こした。ひびの入った壁、色あせた天井、小さな部屋。ここは壬生城下町の片隅、今にも崩れそうなみすぼらしい部屋。あの時僕は庵家の人たちとほうほうの体でこの空き屋敷に転がり込んだ。僕はすごく嫌だったのだけど、他にどこも行く所がなかったから仕方なかった。激しい轟音を背に、なんとかここまで逃げ降りられたのは幸運だったのだろう。でもあの混乱の中、僕の手を引いてここまで走ってくれたのが誰だったのかは、なぜか全然覚えていなかった。ゴツゴツした手の感触だけが心に残っていた。
 足を布団に突っ込んだまま、僕は目を拭う。拭っても、拭っても、僕のほおはどんどん濡れる。小さく鳥の声が聞こえる以外、あたりは静まり返っていた。日中はあんなにうるさいあの家族も、こんな冷たい朝はまだ眠りこんでいる。一つか二つ向こうの部屋から、かすかに誰かのいびきが聞こえる。遊庵だろうか、寿里庵だろうか。でも、そんなことはどうでもいい。いつも目覚めるたびに惨めになる。僕はもうどこへも帰れない。どこにも行く当てがない。こんな所にいつまでも居たくないけれど、かといってどうしていいのかなんてわからない。
 だめだ。早く涙を止めなくちゃ。あとであいつらが起きて来た時、泣いていたのを知られたくない。今ならまぶたが腫れる前に止められる。僕はそう思って何度も何度も袖で目を拭く。それでもしずくは指の間から伝って落ちる。
「時人?」
 ふいに呼ばれて、僕ははっとして顔を上げた。
「何を泣いているんですか、時人」
「泣いてなんかない」
 僕が障子の外に向かって思わず声を荒げると、僕の名を呼んだ奴の影が、唐紙に濃く浮き上がった。
「待って。今は開けないで!」
「開けるつもりはありませんよ」
 その影は一枚紙の向こう側に軽く膝をついた。
「開けなくても、貴女がどんな顔をしているかは想像がつきます」
 その話題には触れてほしくなくて、僕は突っかかるように囁いた。
「なにしに来たわけ、アキラ君」
「来たと言うよりは通りかかっただけですが」
 くすっと笑う声が聞こえた。
「それから、来たと言うよりは行くと言った方が正しいかもしれません」
「どこへ?」
「壬生ではない所へ。傷もある程度は癒えたことですし、もう潮時かと。私はもっともっと修行して狂を追いかける。そしていつか」
 行ってしまう。
 君まで行ってしまう。
 僕を最も動揺させたのは、一番最初にそんなふうに思ってしまったことだった。こんな嫌な奴、どこへでも行ってしまえばいい。そんなふうに思わなかったことだった。なんでこんなに心細い?なんでこんなに、胸がぎゅうっとなる?でも僕は何もかもを隠して、障子紙に額をくっつけた。
「……そう。じゃあ行けば」
 自分でもこれは無いだろうというくらい小さな声。聞こえたのか聞こえなかったのか、アキラがさらりと立ち上がる気配がした。
「では時人、さようなら。偶然とはいえ貴女が起きていて良かった」
「どうして?」
「たぶんもう二度と会うことはないでしょうから」
 心臓が一度激しく打った。息が詰まった。
「もし僕が寝てたら、起こした?」
「貴女がそこで穏やかに眠っているのなら、それはそれでいい」
 僕はもう口がきけないように感じた。いろんな思いが胸の中に渦巻いて、それなのに何一つ言葉で浮かんでは来ない。目をしばたたくと睫毛の先が障子にこすれた。枠にかけた指先は唐紙を少し凹ませた。
「さよなら、時人。元気で」
 黙ったままの僕に、影は身を屈めて軽く手を挙げた。僕は答えずに目をつぶり、障子に額を押し付けた。意地でも開けない。開けてなんか、やるもんか。行くならとっとと行けばいい。するとその時。

 額が一瞬、温かくなった。

 僕ははっと息をのんだ。身動きできなかった。今のはいったい何?あわてて顔を上げると、もう影はどこにも映っていなかった。障子紙越しに僕に触れたもの、あれはもしかして?……胸が熱かった。鼓動がとまらなかった。僕はさっきまで泣いていたことなんて綺麗に忘れ、額を指先で押さえて、何度も何度もその感触を思い起こした。僕はこんなに温かいものが世界にあるなんて知らなかった。こんなふうに泣きたくなることがあるなんて、知らなかった。僕はしばらく呆然と座り込んでいた。
「で、どうするんだ。時人」
 ふいに後ろから声がして、僕は飛び上がった。
「なんだよ遊庵!勝手に入ってこないでよ!」
 思い切り睨みつけたけど、遊庵は開けたふすまに手をついて首を傾けただけだった。
「そんなことより。行っちまったぜ、あいつ」
「別に僕には関係ないよ」
「そうか?」
 遊庵はにっと笑った。
「時人、一生に何度かぐらいは素直になっておいた方がいいぜ」
「どういうこと」
「今追いかけないと、下手すりゃ一生死合えないぜ。あの男は、このまま放っておいたらいずれ鬼目の狂の剣の錆になっちまうからな」
 そのとおりだ。でも。
「また挑戦するんじゃなかったのか?それともしっぽ巻いて諦めるとか?」
「だ、だけど……だけど!」
「だけどもへったくれもない。あいつはお前にチャンスをくれたんだ」
 遊庵は目の当たりに手を当て、遠くを見るような仕草をした。
「まだ遠くへは行ってない。だからとっとと支度して追っかけろ。歩くのは時人よりもかなり速いから、ぐずぐずしてると見失っちまうぞ?」
「チャンスって何。意味わかんないんだけど」
「ばかだなあ、お前は」
 遊庵はくっくっと笑った。
「壬生から出る道はいくらでもあるのに、なぜアキラはここを通るのを選んだ?」
「えっ」
「あいつが傷を治すために休んでいた場所から見れば、ずいぶんと遠回りなこって」
 ついと手を伸ばして、遊庵は僕の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「あー、俺ってこんなに親切な男だったんだな。感謝しろよ?とにかくさっさと行け、庵奈たちには適当に言っとくから」
 僕は両手で口元を押さえ、考えた。そして僕はふと思い出して遊庵を見上げた。
「それはそうと、どこからどこまで見てたわけ?」
「あ?どこからどこまでって、なんだよ。意味わかんねーな」
 遊庵はひょいと背中を向け、部屋から出て行きしなに肩をすくめた。
「しかしあいつもやることが気障だよな。お前の心をかっさらうにゃあれで充分だろ」
 素早くカードを投げつけた、が、遊庵はとっくにいなくなっていた。カードは全部ふすまに突き刺さる、そして火照って火照ってしかたのない頬をどうしようもなくて、だから僕はまた思い出す……ほのかに額に残る熱を。僕は顔をごしごし擦って枕元の小太刀をひっつかんだ。
 まだ間に合う。今なら、まだ間に合う。
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