これから

 さすがに、途中で諦めるかと思っていたら。
 さっきからくすくす笑いがこぼれるのを、どうにも止められなかった。当初の予定より長く砂丘の上を歩き、さらにでこぼこした磯の上をえんえん進み、林に沿い、丘を越え、山を越え、森に分け入ってもまだついてくる。岩や石がごろごろしている流れの横、せせらぎに沿って歩いていくと、少し開けた場所に出た。
 私はそこでようやく立ち止まり、後ろを振り返った。
「あなたの強情さにはまったく呆れますね、時人」
 時人は私を睨みつけたが、肩で息をしながらでは何とも迫力に欠ける。
「もう声も出ませんか?まあ、あなたはもとより身体が強くはないようですし」
「僕と、戦えよ……」
「他に言うことがあるでしょうが」
 私は苦笑して、時人を手招きした。
「いいから来なさい」
「戦う、なら、行ってあげるよ」
「なに馬鹿なことを言ってるんですか。もうあなたとは戦わないと言っているでしょう」
 口をへの字にしたまま時人が動かないので、私は軽くため息をついて歩みより、がしっと彼女の腕を掴んだ。
「なに、するんだよ!触るな!」
「来いと言っているでしょう。その耳は何のためについているんですか」
 私は半ば強引に時人を流れのほとりに引き寄せた。そのとき時人がずずずっと足を引き摺ったのに、気づかないわけがない。私は時人を座らせ、その足首に手を触れてみた。灼いた鋼のように熱い。
「まったくあなたはどこまで馬鹿なんでしょうね」
「だって、待ってって言ったって待ってはくれないんでしょう」
「それはそうですよ」
 痛んだ足首を掴んで、冷たい水にとぷんと浸けた。流れの中に小さな魚が素早く逃げる。水の中で触れると、確かにまめがいくつもできていて、傷だらけのざらざらだ。思わずくすっと笑うと、苛立った声が飛んできた。
「くすぐったいんだけど」
 私は肩をすくめて手を離し、時人の傍らに腰を下ろした。上流側から片手で水をすくい、顔を湿し、乾いた唇に運ぶ。冷たいものが喉から服の中までつたっていき、火照った肌に心地良かった。
「冷たすぎるよ」
 時人は水から足首を上げ、日の光で暖まった石の上に載せた。
「でも、これで少しは良くなったでしょう」
「……うん」
 涼やかな風が水の上を吹き抜けていった。木々は優しくざわめき、辺りいっぱいが緑の匂いだった。目が開いていても閉じていても、この光景の美しさはそんなことをいとわない。
 しばらくの沈黙のあと、時人がようやく口を開いた。
「君は、どこへ行くの」
「それを聞いてなんとしますか」
「そこへ先回りして待っていようかと思って」
 私は吹き出した。
「だから、あなたとは戦わないと言って」
「戦おうとする気になるまで逃がさないから」
 私の言葉を強く遮り、今度は時人が私の手首をぎっちり掴んだ。
「僕の方が君より強いんだ。それを証明してみせる」
「でも私には、あなたよりも大切な人がいるんです」
 はっと息をのむ気配がして、私の手首がゆるむ。私は穏やかに続けた。
「私は狂と戦うために旅に出た。それが私の行く先であり目的です。だからあなたとは戦わない。なぜならば私はずっと狂を追いかけていくのだから」
「だけど、狂は真の紅の王でしょう。敵うわけない」
「だからといって、私にはそれが諦める理由にはならない」
 そうきっぱりと言い切ったとき、ふと気がついた。私は時人を前にするとつい語ってしまうらしい。一人苦笑すると、時人が噛み付いてきた。
「なに笑ってんだよ!僕は」
「はいはい、わかりました。それならあなたの気の済むようにしたらいいですよ。この私を翻意させることができるかどうか、試してみればいいでしょう。あなたが私にその価値を見いだすのならね」
 そう言って私は懐を探った。たしか、このあたりに持っていたはず。
「その足のまめは破れていますね。化膿したらそれこそ歩けなくなる」
 私は流れでもう一度手を洗い、取り出した傷薬をそこに塗ってやった。たすきの一部を裂き、少し厚めに巻く。時人は岩にもたれ、黙ってされるがままになっている。いつもこんなふうに素直だといいのに、と思うと思わず笑いそうになったが、また怒られるのも鬱陶しいのでやめておこう。
「薬?そんなもの持ってたんだ」
「私が壬生を出ようとした時、ほたるが分けてくれたんです」
「ほたる?……ああ、遊庵のところの?惑?」
 時人は首をひねった。
「こんなもの持ち歩くようなやつには見えないけど」
「まったくそうですね、私も驚きましたよ」
 布を巻き終わり、ぽんと足を叩く。
「はい終わり。無理をすることと努力することは同じではないと覚えておきなさい」
「なんでこんなことするんだよ」
「要りませんでしたか?」
「……そうじゃないけど」
 私はため息をついた。
「それなら、何か一つ足りないことがあるでしょう」
「なんだよ、それ」
「必要なことをしてもらった時に言うことは?」
 時人はぐっと詰まったが、それでもかすかに声を絞り出した。
「ありがとう」
「合格。良くできました」
 私は立ち上がって袴のすそを払った。
「私についてくるつもりなら、それなりの態度でいてもらわないとね」
「ついていってもいいの?!」
 時人は跳ね起きて後ろから私の刀を引っ張った。さすがにイラっときて強引に振り払う。そのまま私はすたすた歩き始めた。
「それを決めるのはあなたですよ。私は一切感知しません」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 後ろから追いかけてくる足音。私はなぜか嬉しさにほほ笑んでいた。
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