風のあとに
冬の枯れ野に。
まるで春のような、一陣のあたたかい風が、瞬く間に吹き抜けていく。
遠く離れていたにもかかわらず、僕の前髪も舞い上がる。
そして、彼は倒れた。
「アキラ君」
地面に線を引いてから、僕は小枝を投げ捨てて駆け寄った。応えは返らないとわかっていても、それでも呼びたかった。見下ろした身体はボロボロで、なのに彼は微笑んでいて。これがアキラだ、と思う。何度でも何度でも、自分が信じたたったひとつのものを追い求めて。そうやって生きていくこの姿。僕が追っている、この背中。
「お前、まだアキラとつるんでんのか」
鬼目の狂。とっくに行ってしまったと思っていたのに。
「つるんでるわけじゃないけど」
僕が一方的についていってるだけだけど、とは言えなかった。そんな僕の心中を知ってか知らずか、鬼目の狂はおもしろそうに僕を眺めて軽く笑った。
「同じだろ?」
今度は僕は答えなかった。それに、そんなこと僕にとってはもうどうでもいい。こうして今、アキラの横に膝をついているのは、まぎれもなく僕なのだと思っているから。たとえ、アキラがこのまま目覚めなくとも。
冷たい風がアキラの髪が吹き散らす。その生え際を指でなぞって、顔がちゃんと見えるようにした。血とほこりと汗で汚れたその額も。うっすらと笑みを浮かべたその唇も。
「時人」
ざ、と音がして振り返ると、鬼目の狂が立ち去るところだった。
「何?」
「ああ」
逆光を背負い、剣の鞘がやけに眩しく光って、狂の顔が見えなくなる。
「アキラのこと、頼むぜ」
ついうなずいてしまったけれど、狂はそこまで見なかったかも知れなかった。大股で、足早に、見る間に遠ざかるそのシルエット。
そして今度こそ本当に、鬼目の狂は行ってしまった。
どれくらいの時が経ったのか。
アキラの肩がぴくりと動いた気がした。僕は両手でそっとアキラの頭を起こし、膝に乗せる。気がついたのかそうでないのか、唇がわずかに動いた。風が冷たく強くなってきたので、アキラの顔に当たらないように袖で防ぐ。何か、言ってる。僕は覆い被さって耳を近づけた。
「……狂」
予想できた言葉だった。僕は少し笑って、少しだけかなしくて、指でアキラの前髪を梳いた。
強く思う。そう、たとえ君がこのまま目覚めなくとも。
こうして見下ろしていると、心の底からどっと熱いものがあふれてきそうになる。どうして僕は、こんなに君が……。君のこの情熱が僕だけに向けられることは決して無いのに、それでもなお、そんな君を見つめ続けていたい。どうして僕はそれほどまでに、君を追いかけ続けたいんだろう。君までの距離は、まあこんなにも遠く遠くひらいているというのに。
と、アキラの手がわずかに、でもはっきりと動いた。空を探すように、指が少し上がる。ゆっくりつかむと、少し握り返されて。その傷だらけの指をそっと唇に当てると、軽く引っ掻くように動いて、アキラの指先が僕の歯に触れた。
「アキラ君?」
まだ答えは無かったけれど、指が少し伸びて僕のあごに触れた。ちょっと持ち上げるような、いつものあの仕草。嬉しさがじんわり胸に広がった。
「起きたんだ。おはよう」
「狂、は」
「行っちゃったよ」
アキラは微かにうなずいて、大きく息を吐いた。手が力なくぱたんと落ちる。
「それでね。狂に」
僕はそんなアキラの手を掬い上げてぎゅっと握りながら、耳元に口を寄せて囁いた。
「君のことを頼むって言われた」
「そうですか」
唇の端をこころなしか上げて、アキラは少し頭を反らせた。
「じゃあ、頼まれておけば……良いんじゃないですか」
「そうするね」
僕の手がやんわり握り返された。徐々に戻ってくる、温かさ。
「そういえば、あなたのお父上も、『時人のことを頼む』……と、言って、いましたね」
「……うん」
「私は、頼まれたつもりは、ないんですが」
切れる息の下、かすかに微笑って。
「でも、引き受けたつもりはありますよ」
「アキラ君……」
僕の手を握る力が少し強くなった。枯れ草が冷たい風に飛んできて、振り払うと甘い香りがした。泣きたくなる、でもそれはもうかなしい涙ではなくて。ただひたすら、こんなに君をいとしく思うから。たとえどれほどの距離が君を隔てているのだとしても、ほんの少しずつでも、それを狭めていける道を切り開いていけるのなら。
「お互いに頼まれているのなら、これからもよろしくだね」
「そうですね。……よろしく」
アキラの唇にはっきり笑みが灯って、僕らはぎゅっと手を握りあった。風が吹きすぎた冬の枯れ野に、ほんのり咲いた一輪の花みたいに。
まるで春のような、一陣のあたたかい風が、瞬く間に吹き抜けていく。
遠く離れていたにもかかわらず、僕の前髪も舞い上がる。
そして、彼は倒れた。
「アキラ君」
地面に線を引いてから、僕は小枝を投げ捨てて駆け寄った。応えは返らないとわかっていても、それでも呼びたかった。見下ろした身体はボロボロで、なのに彼は微笑んでいて。これがアキラだ、と思う。何度でも何度でも、自分が信じたたったひとつのものを追い求めて。そうやって生きていくこの姿。僕が追っている、この背中。
「お前、まだアキラとつるんでんのか」
鬼目の狂。とっくに行ってしまったと思っていたのに。
「つるんでるわけじゃないけど」
僕が一方的についていってるだけだけど、とは言えなかった。そんな僕の心中を知ってか知らずか、鬼目の狂はおもしろそうに僕を眺めて軽く笑った。
「同じだろ?」
今度は僕は答えなかった。それに、そんなこと僕にとってはもうどうでもいい。こうして今、アキラの横に膝をついているのは、まぎれもなく僕なのだと思っているから。たとえ、アキラがこのまま目覚めなくとも。
冷たい風がアキラの髪が吹き散らす。その生え際を指でなぞって、顔がちゃんと見えるようにした。血とほこりと汗で汚れたその額も。うっすらと笑みを浮かべたその唇も。
「時人」
ざ、と音がして振り返ると、鬼目の狂が立ち去るところだった。
「何?」
「ああ」
逆光を背負い、剣の鞘がやけに眩しく光って、狂の顔が見えなくなる。
「アキラのこと、頼むぜ」
ついうなずいてしまったけれど、狂はそこまで見なかったかも知れなかった。大股で、足早に、見る間に遠ざかるそのシルエット。
そして今度こそ本当に、鬼目の狂は行ってしまった。
どれくらいの時が経ったのか。
アキラの肩がぴくりと動いた気がした。僕は両手でそっとアキラの頭を起こし、膝に乗せる。気がついたのかそうでないのか、唇がわずかに動いた。風が冷たく強くなってきたので、アキラの顔に当たらないように袖で防ぐ。何か、言ってる。僕は覆い被さって耳を近づけた。
「……狂」
予想できた言葉だった。僕は少し笑って、少しだけかなしくて、指でアキラの前髪を梳いた。
強く思う。そう、たとえ君がこのまま目覚めなくとも。
こうして見下ろしていると、心の底からどっと熱いものがあふれてきそうになる。どうして僕は、こんなに君が……。君のこの情熱が僕だけに向けられることは決して無いのに、それでもなお、そんな君を見つめ続けていたい。どうして僕はそれほどまでに、君を追いかけ続けたいんだろう。君までの距離は、まあこんなにも遠く遠くひらいているというのに。
と、アキラの手がわずかに、でもはっきりと動いた。空を探すように、指が少し上がる。ゆっくりつかむと、少し握り返されて。その傷だらけの指をそっと唇に当てると、軽く引っ掻くように動いて、アキラの指先が僕の歯に触れた。
「アキラ君?」
まだ答えは無かったけれど、指が少し伸びて僕のあごに触れた。ちょっと持ち上げるような、いつものあの仕草。嬉しさがじんわり胸に広がった。
「起きたんだ。おはよう」
「狂、は」
「行っちゃったよ」
アキラは微かにうなずいて、大きく息を吐いた。手が力なくぱたんと落ちる。
「それでね。狂に」
僕はそんなアキラの手を掬い上げてぎゅっと握りながら、耳元に口を寄せて囁いた。
「君のことを頼むって言われた」
「そうですか」
唇の端をこころなしか上げて、アキラは少し頭を反らせた。
「じゃあ、頼まれておけば……良いんじゃないですか」
「そうするね」
僕の手がやんわり握り返された。徐々に戻ってくる、温かさ。
「そういえば、あなたのお父上も、『時人のことを頼む』……と、言って、いましたね」
「……うん」
「私は、頼まれたつもりは、ないんですが」
切れる息の下、かすかに微笑って。
「でも、引き受けたつもりはありますよ」
「アキラ君……」
僕の手を握る力が少し強くなった。枯れ草が冷たい風に飛んできて、振り払うと甘い香りがした。泣きたくなる、でもそれはもうかなしい涙ではなくて。ただひたすら、こんなに君をいとしく思うから。たとえどれほどの距離が君を隔てているのだとしても、ほんの少しずつでも、それを狭めていける道を切り開いていけるのなら。
「お互いに頼まれているのなら、これからもよろしくだね」
「そうですね。……よろしく」
アキラの唇にはっきり笑みが灯って、僕らはぎゅっと手を握りあった。風が吹きすぎた冬の枯れ野に、ほんのり咲いた一輪の花みたいに。
スポンサードリンク