傷跡

 あんまりにもひどい雨だった。
「これはこれは、降られましたね」
 アキラが呆れたように笑いながら髪をかきあげると、水滴がぼたぼた三和土に落ちた。見れば僕の足元にも水たまりができている。僕たちだけじゃなく、旅籠の入り口は大勢の人でごった返していて、僕は少し気分が悪く思った。
「なんとか一部屋取れましたよ」
 肩をすくめてアキラがあごに指を当てる。いつもの仕草。
「運が良かった。あと半時遅れていたら豪雨の中で野宿でした」
 そのからっとした口調がなぜか僕を苛立たせる。アキラは首の傾きだけで僕を促し、すたすた廊下を歩いた。古い旅籠の床は軋んで不快な音を立てる。なんで僕がこんなみすぼらしい宿に?って、こんな旅路じゃ仕方ないこともわかるけれど、時々すごく屈辱だ。そしてなにが一番むかつくかって、僕の機嫌に気づいていながらしれっと無視するアキラの横顔。
 一緒の部屋なんか本当は嫌だけれど、だったら雑魚寝部屋ですね、と言われてからは言い返せない。知らない奴らの中に放り込まれるのはもっと嫌だ。だったらアキラを選ぶのかと思うとそれもなんかむっと来る、こんな消去法。仕方がないから選んでやってるんだ、そう、仕方がないから。それに二言めには、『勝手についてきたくせに』って言われるんだから。
「ほら」
 アキラが手ぬぐいを放ってよこして、つい素直に受け取ってしまう。そんな自分にもなんかいらつく。それでも髪と手足を拭くとだいぶ心持ちが違った。ずぶ濡れになった服を脱ごうとして、……今はだめだ。一刻も早く脱ぎ捨ててしまいたいけれど、後ろにはアキラがいる。
「何をぼーっと突っ立っているんですか。早く着替えないと風邪を引きますよ。ああ、どうせ私には見えないんですから」
「嘘ばっかり。世界が君にどう"見えて"るのか、僕にはわからないのを良いことにそんなふうに言うんだから」
「これはこれは、そんなことを気にするんですね、私には今さら隠すまでもないのに」
 頬にかああああっと血が上る。振り向きざまカードを投げつけると、ひるがえった着物にはらりと払われた。
 瞬間、目を奪われる。
 むき出しの背中。肩から背中にかけて、背から胴にかけて……大きいのや小さいの、たくさんの刀傷で埋め尽くされたその背中。背中と言わず腕にも腹にも無数の傷跡。
「そんなに驚くほどのものじゃありませんが、そんなふうにじろじろ見られるのも不快ですね」
 アキラは乾いた浴衣をするっと羽織り、濡れた着物を衣桁にかけた。
「それより、着替えないので?気にされるのなら外に出ていましょうか、いつも通り」
 むかついた。僕は旅籠に着けばいつも、アキラのいないタイミングを狙って素早く着替えてた。それこそいつも通りさりげなく席を外せば良いのに、わざわざ今そんなこと口に出さなくてもいいでしょう!ほんと、嫌だ!
「わかってるんならさっさと出て行ってよ。僕に風邪でも引かせたいわけ」
「はいはい」
 おかしそうに笑う。背を向けたその首筋、襟元がまだゆるんでいて、肩口に傷跡が見え隠れた。さっきのとても大きな刀傷の端かもしれない。単純に考えて僕よりもずっとずっと短く生きているのに、それでもこれだけの傷の残る戦いをどれほど経てきたのだろうか。
「そんなに気になるんですか?」
「だって……あんなにたくさん」
 うまい言葉が見つからずに口ごもると、アキラは穏やかに微笑んだ。
「たくさん、ね。あなたが付けた傷も数に入ってますよ。ああそうだ、たぶん時人、あなたにも」
 アキラは指を立て、いきなり僕の鎖骨をぐっと突いた。
「私の付けた傷はここでしょう?」
 アキラはクスリと笑い、今度こそ背を向けてさらりと部屋を出て行った。僕は両手で、自分の身体をぎゅっと抱く。傷跡がなぜか灼けるように熱く痛んだ。
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